毒親に育てられた私と母親の話。【小学生の時の髪型】
毒親に育てられた私と母親の話。【小学生の時の髪型】
今回は、母が決めていた私の髪型について書いていきます。
前にも書きましたが、
母は私のことをなんでも決めたがっていました。
服装だけでなく、髪型も決められていました。
小1〜小4まではロングでした。
朝、母が髪を結わいてくれていました。
必ず、三つ編みにおでこは丸出しでした。
私は、その髪型がとても嫌いでした。
他の子は、ポニーテール、ツインテールなどで可愛いなと思い、
母に、ポーニーテールをしたいと小4の時に言ったことがあります。
それを言った週末、
「美容室行くよ」と母に言われ長いから少し切るんだなと思い、
美容室に行くことにしました。
すると、私は少しだけ切るのかと思っていたのですが、
母はショートにしてくれと頼んでいました。
ショートにするなんて思っていなかったため驚きました。
母になんでショートにするのかと聞いたら、
「ポニーテールがいいとか言うからムカついた」と言われました。
それから中学に入るまではショートでした。
伸ばしたいと言っても、「乾かすのがめんどくさい、電気代の無駄。」などと適当に理由をつけられて許してもらえず少しでも伸びたら切りに行ってました。
今回は短いですがここまでにします。
次回は、中学生の時に決められたいた髪型について書いていきます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
毒親に育てられた私と母親の話。【誕生日②】
毒親に育てられた私と母親の話。【誕生日②】
今回は、前回の続き誕生日のことを書いていきます。
前回の話以来、誕生日をあまり祝ってもらえなくなりました。
誕生日プレゼントは、父が何がいい?と聞いていてくれたため、
買ってはもらえましたが、
毎回母が勝手に決めていました。
私が欲しいものではなく、小学生の時は鉛筆、消しゴム、ノートなど、
中学生になると、シャーペン、消しゴム、ノート、ブラウスになっていました。
文房具は必要ですが、自分のお小遣いで可愛くて好きなものを買えるし、
誕生日に母が選んだものは、地味で可愛くないものだったので不満でした。
不満そうにしていると怒られるのでなにも言えませんでした。
父に本当に文房具でいいのかを聞かれると、
母が「これがいいんだって」と答えていました。
一方妹の誕生日プレゼントは、好きなものを選んで買ってもらっていました。
母は、妹のことがあまり好きではなさそうだったのですが、
誕生日、クリスマスなどの時にわざとらしく妹と私のプレゼントの差を見せてきました。
ケーキも同じで、
妹はケーキが毎年ありました。
いつも妹が選んでいましたが、私の時は毎年ではなく母の気分でした。
ないことの方が多かったです。
もちろん、私には選ばせてもらえず母が食べたいものを買っていました。
中学生になると、もう別にいいやと思うようになり、
誕生日にケーキを食べることはなかったです。
私の誕生日はどうでも良さそうでしたが、
母は自分の誕生日になると、ケーキやプレゼントのことをとても気にしていました。
忘れてるんじゃないかと思うと、
忘れてないよね?と確認されていました笑
父も大変だったろうなと思います。
ちなみに、小5あたりから誕生日おめでとうと母に言われたことはありません。
自分が祝われなかった時はとても怒るのに・・・。
今回はここまでにします。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
毒親に育てられた私と母親の話。【誕生日①】
毒親に育てられた私と母親の話。【誕生日①】
今回は、子供の自分の誕生日の時のことを書いていきます。
子供の時、誕生日を母親に祝ってもらった記憶が、
小3ごろからありません。
祖母の家で誕生日を祝ってもらった際に、
具合が悪かったのですが、
祝ってもらっているのに具合が悪いとは言えずに過ごしていました。
具合が悪かったけど、楽しかったことは覚えています。
誕生日ケーキは、私の好きなチーズケーキでした。
食欲はあったため普通に食べましたが、
帰りにものすごく気持ちが悪くなってしまいました。
母に言うと怒られそうだなと思い、父に伝えましたが、
父はどうしたらいいのかわからず、母に伝えてしまいました。
それを聞いた母はイライラしながら、「なんでもっと早く言わないんだ、具合が悪いのにケーキなんか食うから悪いんだ。」と怒られました。
気持ち悪く吐きそうな中、
早く帰りたいからと無理やり電車に乗せられずっと吐くのを我慢していました。
最寄り駅に着き、
トイレで吐いてきたら?と父に言われトイレに行き吐きました。
母がドアの前で待っていて、
出てきた瞬間、「せっかくばあちゃんが用意してくれたのにもったいない、最低だね」と言われました。
このこと以来、誕生日を祝ってもらったことがありません。
このこと以降のことは次回書いて行きます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
毒親に育てられた私と母親の話。【初めての賞状】
毒親に育てられた私と母親の話。【初めての賞状】
今回は、私が初めて賞状をもらった時の話を書いていきます。
小1の時に一度絵を描いて賞状を学校でもらったことがあります。
小1で初めての賞状で先生にも褒められとても嬉しかったことを覚えています。
勉強が、小1の時点であまり得意ではなく絵をたくさん描いていました。
母も絵を描くのが好きですごく上手だったので、
母みたいに絵が上手になりたいなと思っていました。
母も絵を描くことが好きなのは知っていたので、
この賞状を母に見せたら喜んでくれるだろうなと思いワクワクしながら帰宅しました。
帰宅し、早速母に賞状を見せると、
「賞状もらえるなんてすごいじゃん!」と褒めてくれました。
褒めてもらえた時はすごく嬉しかったです。
ですが、母は何の賞状かを知った時に、
「え??図工???なんの役にも立たないじゃん。絵を描いて賞状もらっても意味ないよ」と言われてしまい、破られてしまいました。
普通にショックでした。
それ以来母に絵を描いて見せてもあまり褒めてもらえなかったです。
絵を描くことよりも勉強、スポーツをやれとよく言われていました。
母がおかしいと感じ始めたのは、小4あたりからでしたが、
よく思い返すと幼い時からおかしいなと今は思います。
短いですが、
今回はこれでおしまいになります。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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毒親に育てられた私と母親の話。【近所のおばあさんのお家②】
毒親に育てられた私と母親の話。【近所のおばあさんのお家②】
今回は前回の続きで、【近所のおばあさんのお家】の続きを書いていきます。
学校を早退し、おばあさんの家に行った私を迎えにきた母は、
迎えにきてすぐに、
私のことを殴りました。
今回は完全に自分が悪いので、
殴られることも、怒られることもわかっていました。
その時の私は、
悪いことをしたら殴られ蹴られるのが当たり前だと思っていましたが、おばあさんの言葉で悪いことをしたら殴られる、蹴られるのはおかしいことなんだなと思いました。
殴った母をみたおばあさんは、
「いきなり殴るなんておかしい、まず子供の話をきちんと聞くべき。」
「私もお母さんに連絡をしなかったのはごめんなさい、一番に連絡をすべきでした。」と
おばあさんは母に謝っていました。
母に私の話を聞いてもらうことなんてなく、殴られるのが当たり前だったため、話を聞くべきと言ったおばあさんの言葉に驚きました。
私も母に「私が勝手におばあさんの家に行った。」「ごめんなさい」と言いましたが、
母はもう私よりもおばあさんに腹が立っていて私のことなんか無視でした。
私が勝手にした行動でしたが、
おばあさんのせいにしたく、
「誘拐だ、警察に言う。」などとおばあさんに言っていました。
おばあさんにひたすら暴言を吐いていたのですが、
幼馴染のお母さんがたまたま近くを通り、
何事なの???と聞いて、
「もう帰ろう、謝ってるし今日はおしまいにしよう」と言いその時はその場を離れることに。
私は無理やり母に腕を引っ張られ家まで連れて帰られました。
引っ張られながらも振り返り見た、その時のおばあさんの悲しい表情が忘れられません。
私がおばあさんに会ったのはそれが最後でした。
ここで完全に、私の居場所は無くなってしまいました。
迷惑をかけたくなく、幼馴染に行こうと誘われても行きませんでした。
母は、家に帰った後は、気がすむまで暴言を吐き、殴り蹴りました。
しばらくは、おばあさんの悪口を言ったり、
思い出して腹が立ってきたから今から警察に行こうなどとよく言っていました。
おばあさんと会わなくなって、2年ほどが経ったある日、
地域の掲示板に、おばあさんが亡くなりお葬式の案内が張り出されていました。
それに気がついた母は、
「やっと死んでくれた。よかった。」「お前もよかったね、話を聞いてくれる人がいなくて嬉しいね」などとよくわからないことを言っていました。
いくら嫌いだとしても、人の死を喜ぶ母を軽蔑しました。
その後もおばあさんの住んでいた家が
近所の火事の火が飛び火事になったことがありました。
その時も母は、家が燃えたのをよろこんでいました。
この人異常だなと子供ながらに思いました。
おばあさんとの話はこれでおしまいです。
おばあさんが亡くなる前に、おばあさんに謝ることができなかったことを後悔しています。
長くなりましたが、
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
毒親に育てられた私と母親の話。【近所のおばあさんのお家①】
毒親に育てられた私と母親の話。【近所のおばさんのお家①】
今回は、私の唯一の逃げ場だった近所のおばあさんの話を書いていこうと思います。
学校にも家にも居場所がなかった私は、近所に住んでいたおばあさんの家に行くことがよくありました。
最初の頃は、そのおばあさんのことを教えてくれた幼馴染とよく行っていましたが、そのうち私一人でも行くようになりました。
母にはおばあさんの家に行っていることは秘密にしていて、
学校帰りや、学校から帰ったあと友達と遊ぶといいおばあさんの家に行っていました。
おばあさんは、私のことをとても可愛がってくれていました。
私もおばあさんのことが大好きで、おばあさんには学校のこと、家のことなどなんでも話していました。
学校、家に居場所がなかった私にとっておばあさんの家は
唯一の居場所となっていました。
一度、学校で具合が悪くなり早退をしたことがあります。
でも家に帰りたくなく、家には誰もいない、鍵を持っていると先生に嘘を言い、
家に帰ったら学校に電話をすることを条件で早退をすることにしました。
私は早退し家に帰ることはなく、
おばあさんの家に行くことにしました。
おばあさんの家に着き、おばあさんの家から学校に電話をしました。
おばあさんの家で休んでいたら、
学校からおばあさんの家に学校から電話がかかってきました。
学校からだよと言われ電話を変わると、
「今どこの家にいるんだ、具合はどうかと家に電話をしたらお母さんが出て早退したことはしらない、家には帰ってきていないと言っている。」とのことでした。
おばあさんに、「大丈夫だから、先生に正直に話しなさい」と言われ、
電話で先生に正直にどこどこにいると話しました。
先生に話したあと、すぐに母に連絡がいきました。
どこにいるのかわかった母は、おばあさんの家まで迎えにきました。
私は、母が迎えに来るまでの間、怖く怖くて、泣きじゃくっていました。
おばあさんは、「大丈夫、おばさんがはなしてあげるから。」と言ってくれました。
長くなるので、
母が迎えにきた後のことはまた次回書きます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
毒親に育てられた私と母親の話。【小4の時の担任の先生③】
毒親に育てられた私と母親の話。【小4の時の担任の先生③】
今回も前回の続きの小4の時の担任の話を書いていきます。
前回、髪を引っ張り引きずられわたしをどこかに連れていこうとした先生は、
「俺がおかしいとか思ってるんだろ、おかしいと思ってるなら今から校長室に言って話してこいよ。」と言われ校長室の前まで連れて行かれました。
校長室のドアを開けて、言おうと思ったら
校長先生はおらず、振り返ると担任はクスクス笑っていました。
「校長がいるところにお前を連れていくはずないだろ、バカか。」
などと言われました。
また髪を引っ張られ教室に連れ戻されると、
「今日のことを両親に言ったらどうなっても知らない、言うなよ」
と言われその日は帰されました。
いつもより帰宅時間が遅かったので
母は機嫌が悪くなっていました。
他にも機嫌が悪くなる原因があったらしく、
その日は、何か悪いことをしていなくても母は私に暴力をふるってきました。
小4の時の私は、
家にも学校にも居場所がありませんでした。
学校では、担任からの嫌がらせや暴力はエスカレートしていきました。
そのことはまた書いていこうと思います。
こんな状況なので家にも居たくない、学校にも行きたくないと
毎日思っていました。
一度だけ学校に行った後、具合が悪いといい早退をしたことがあります。
家には誰もいない、鍵を持っているからと嘘を保健の先生にいい、
帰宅をしたら、学校に電話をすることを条件で帰ることになりました。
次回はこのことを書いていきます。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。